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こんにちは、ふるさやです!

本日はこちらのブログにお越しいただき、どうもありがとうございます!

ここで私が1番伝えたいのは

私は、ごく普通の子育て主婦ですが今の「在宅ワーク」と出会って
スキルゼロ状態から月10万円を稼ぎこの先「会社に属する」ことへの不安から解放されて人生が180度変わったということです。

私の過去についてはこれからお伝えしますが今までで、正社員経験はわずか10カ月。
その後派遣社員として数年働きましたが役職に就くこともなく出産し退職。

そのため、履歴書で書く時に加点となりそうな「社会的価値」みたいなものはまったくありませんでした。

そんな社会的価値ゼロでポンコツ主婦だった私ですが現在、フリーランスとして家に居ながら月10万を安定的に稼ぎ、さらに自分価値の向上のためにWebマーケティングを学んでいます。

今後の目標は、1年以内に
月30万を安定的に稼ぎ60万貯蓄することです!

私がここまで自分の考え方や行動を変えることができたきっかけは
とあるWebスクールに入ったことです。

そして、その1歩を踏み出そうと決めた背景には
「将来へのお金の不安」「会社に属することへの嫌悪感」がありました。

今日本は、物価の高騰や年金の受給金額減少などで自分や家族が生きるための「お金」について考える人が増えていますが当時の私は、貯金ゼロで夫に頼りっぱなしだったので子どもたちへの将来のお金の心配をしていました。

 

でも、いざ働きに出ると

・子どもが体調不良になるとママが休むのが当たり前という日本の風潮。
急な休み連絡に理解してもらえない職場環境での精神的つらさ。
・働くならフルタイムじゃないと保育園の定員に入れず時間の自由がない。

と「会社に属する」ことがママにとってかなり大変で肩身が狭い世界であることを実感しました。

現在、イギリスの経済誌「エコノミスト」でも、主要な29か国を対象に女性の働きやすさを評価したランキングを発表し、2023年日本は最下位から3番目という結果が出るほど社会的にも女性の働く環境については課題感を感じています。

 

今もお金の悩みは尽きず、娘が小学校に上がり習い事に行ったり食費も大人分を1人で食べきれるようになるなど成長していくにつれてかかるお金が目に見えてどんどん増加。

今後も「このままでは、今の収入じゃ足りないかも…」という不安は出てくると思いますが今の働き方を選んだことで「じゃあもっと単価を上げていこう」と自分で調整できるのでとても前向きに毎日を送ることができています。

 

私の過去の話を通して、少しでも似たような経験をして今不安に感じている人は自分の理想の未来に向かって行動を起こすきっかけにしていただけると嬉しいです!

 

基本情報

・ニックネーム:ふるさや
・37歳
・3人の子どものママ
(小学2年、年長、3歳児)
・現在、在宅でSNS運用代行をはじめWebスクールの運営アシスタントやNotion構築などを兼任

幼少期~小学生時代

電気屋に生まれたおてんば娘

父と母は、町中でたまに見かけるような小さな電気屋さんを営んでいました。

兄弟は兄と弟の3人兄弟。

私はというと、その頃流行った紙でできた着せ替え人形が好きな乙女な一面もありつつ路駐している軽トラの下に猫と一緒に潜り込んで母にヒヤヒヤさせていたおてんば娘でもありました。

私が小学校に上がるタイミングで電気屋さんをたたみ親会社から独立。
自営でお客様の自宅のエアコン設置などをする仕事をし始めました。

初めての学生生活をスタートするのですが
母が近所の小学校はいじめが横行していたため自宅から1時間離れた小学校に入学。

そのため、朝遅刻したときは親に泣きながら頼んだり、時には逆切れして毎回母は呆れながらも送迎してくれることが多々ありました。

なので私は子どもながら「お母さんは、必死にお願いしたり、困らせたりしたらお願いを聞いてくれるんだ」と学習してしまい、ことあるごとにこの手段を応用してお願いごとを聞き入れてもらっていました。

中学校に入学直後、両親が念願のマイホームを購入。
今の家から東京都へ引っ越しが決まります。

転校という形で中学生活を送りましたが同級生も歓迎してくれて楽しく過ごしていましたがこの時、あるぞっとする事件が家族に起きました。

 

中学生~高校生時代

恐怖体験から念願のマイホームを手放す

引っ越しをして数カ月が過ぎたころ、
人のいい父は、悪い経営者に利用されてしまい次第に仕事がうまくいかなくなってきました。

そのため、毎日の食事がやっとという感じのかなり貧しい生活を送っていました。

さらに、母が「子宮筋腫が悪性かもしれない」と医師に言われ手術することになったり、兄と弟が近くの道路で交通事故に遭遇。

私も何の前触れもなく動機がして、苦しくなるパニック発作が急に出始めました。

ここまでくると、偶然とは思えず家族で「なんかやばい」ということでせっかくのマイホームでしたが2年もしないで引っ越すことを決めました。

後日談ですが、霊感の強い兄の友人と兄が一緒に住んでいた場所を通った際その場所を指さして「あそこはヤバイ」と言われたそうです…
マイホームを買うときは霊感の強い人を知り合いに持つと良さそうです。笑

 

やりたいことがあっても行動は裏腹

学校生活はというと
仲の良かった友達に誘われ中学の時にバスケ部を3年間、 高校の時は、側転したりするのが好きだったので器械体操を3年間していました。

ただ、このころ小さいころから着せ替え人形で遊んだり家にある布をリカちゃん人形に巻き付けるなど「洋服を作ること」に興味があり将来はそっちの道に進むと決めていたので部活の練習が厳しくなると
「将来バスケ選手(体操選手)になるわけじゃないしなぁ」と内心思っていました。

ただ、「友達との関係を壊したくない」「途中でやめたら恰好悪い」という気持ちもあり部活をやめる選択肢は私の中にありませんでした。

でもそのおかげで「やりぬく力」と「忍耐力」は身についたと感じています。

 

 

短大~社会人時代

本格的に夢に向かって行動開始

高校を卒業後、念願の服飾の短大にAO入試で入学。
短大を選んだ理由は 以前の恐怖体験をした頃からたまに外食に連れて行ってもらえるくらいに経済的に回復したものの裕福とは言えなかったので有名なモ〇ド学園などの費用が高いところは選ばず学費が低く、家から近い場所で大学を決めました。

 

正直、「競争」「ライバル」のようなバチバチした環境が苦手だったので「避けて通りたい」という気持ちと都心に出るのが単純に怖いという気持ちがありました。

 

短大生活は、同じ夢に向かって学んでいる仲間もいて切磋琢磨できる環境はとても居心地がよかったので私にとってとても楽しい2年間でした。

入学して真剣にファッションを仕事にしようと考えたとき職業として、

・パターンナー
・デザイナー
・ショップ店員
・バイヤー

などがありどの道を選ぶかによって今やるべきこと就職先も変わってくるため
入学当初から「作ること」が好きだった私はパターンナーになろうと考えていました。

 

しかしパターンナーは、洋服を作る型紙を作るときマネキンに着せて何十本も針で仮止めして形を調整するのですが作業は1mmのズレも許されない世界。

イメージとしては、トランプタワーをめっちゃ高くつめる人と同じくらい緻密さが求められます。

私は、プロになれるほど手先が器用ではありませんでした。

 

 

次にデザイナーですが、絵のセンスが乏しい私は初めから断念。

ショップ店員はすでに学生の時にスーツ専門店でアルバイトをしていたのでわざわざ専門学校に通ってまでなりたい職業ではありませんでした。

なので、消去法で私はバイヤーになることを決めます!

 

その時は、
自分の好きだったアジアンテイストの洋服の買い付けてそれを自分のオンラインショップで販売するというのが「夢」でした。

 

そして卒業後、初めて入った会社は私の大好きなアジアンテイストの洋服や雑貨を販売する企業でした。

やる気だけは人一倍あったのですが、バイヤーにすぐなれるはずもなくはじめは各部門の商品管理に配属。

そこでは、毎朝海外から運ばれてくる商品の段ボールを解体する作業からスタート。
洋服やベッドシーツなど、インドやネパールの現地の人がハンドメイドで作って梱包するため土埃や虫の混入があり常に埃まみれ。

そのため、数日でのどがおかしくなりました。
※当時コロナは流行していませんでしたが、夏の暑い日もマスクをしていました。

また、店舗ヘルプに行くと自社の商品が安く買えるので楽しかった半面
朝8時から車で出社して帰るのは23時とかなりの激務が続き同僚はどんどんいなくなりました。

 

ある日、ついにバイヤー枠が開くという情報を聞き転属を望みました。
しかし、結果は別の人が着任することに。
その後上司に「どのくらいでバイヤーになれますか?」と尋ねてみると返ってきた答えは「2年くらいかな?」でした。

当時の私は、知識もなかったので1年くらい働けば採用試験的なものがあって配属されると思い込んでいたので途方に暮れました。

その後、恩師からデザイナーアシスタントの紹介がありバイヤーは諦めて転職。

「夢は叶わずともこのままこのお仕事を続けてれば何とかなるかも」と楽観的に考えていました。

ただそれも束の間、その会社は1年ちょっとで倒産。
倒産する少し前、会社の予算も少なくなりデザイナーさんは早々に消え、リストラで最初に選ばれたのはもちろん私でした。
その時、私は完全にファッションの仕事にする「夢」を諦めました。

 

 

23~30歳

洋服の仕事は諦めて携帯販売でバリバリ働く

23歳の時改めて、正社員になることより早く働かないとと思っていたので派遣社員に登録。
携帯販売の仕事を始めました。

そこでがむしゃらに働きました。
かなり残業時間も多くハードワークでしたが職場の人にも恵まれて、楽しく仕事ができていました。

当時は、かなり収入も良かったのですが貯金することなく

・大好きな洋服代
・同僚との飲み屋代
・恋人との外食代
・推し活代

などに消えていました。

この時、私は大きな失態を犯します。
会社にもよると思いますが、派遣社員に変わり「市税」や「年金」が給与から天引きから自主納付に変更。

そうとは知らずに正社員の時と同じようにお給料を使って未納を繰り返していました。※今は返済済

 

結婚出産で人生観が激変

26歳の時、高校生の時から交際していた今の夫と結婚。

そして28歳で妊娠。
これをきっかけに真剣に「将来のお金」について考え始めます。

「出産費用はどうする?」
「子どもの養育費を貯めておかなきゃ」
「産後の生活費は大丈夫かな?」
「今の派遣会社の福利厚生どうなってるんだろう?」など

いろいろ気になり出し、たまひよやネットなどに書いてある「出産したらもらえるお金」についてずっと調べていました。

 

当時勤めていた派遣会社は育休制度がまだ定着しておらず担当者も「取れるかわからない」とあいまい…

そのため、私の方で資料をプリントアウトして先方に確認して条件をクリアしたうえで申請をしました。
無事、産前ギリギリまで働き給付金も受け取れました。

産後は育児に奮闘。
貯金&収入がゼロでしたが給付金のおかげで市税の支払いなど何とか過ごしていました。

 

30歳の時、子どもが1歳半になり復職を考えていたタイミングで2人目の妊娠が発覚。
派遣会社には「2人目は厳しい」と言われやむなく2月末に退社。

そこから、妊娠中なので就活するもどこも雇ってはもらえず産後もすぐに預かってくれる保育園がなかったので働きに出ることができず結局、次の年の4月までの約1年弱収入ゼロで1人目の時の給付金を切り崩していました。

さらに、そのころ夫が将来のために派遣から社員への切り替えるため
今よりも収入が減るというタイミングも重なり 「このまま夫に頼りきりで大丈夫だろうか?」 と急に不安が押し寄せてきました。

 

ここから、私も地に足をつけて家族のために働こうと決意します!

 

31歳~35歳

ママになり「会社に属する」ことが難しくなった

4月、子どもを保育園に預け医療関係の派遣に登録して総合病院の受付の仕事をフルタイムで始めました。

この仕事を選んだ決め手は、

・最寄り駅から近い
・3人目を見据えて給付金がもらえる

そして医療関係の職場は子育てママが多く子どもの急な体調変化でおやすみするときも理解があるという口コミを多く目にしていたからでした。

私が配属された部署は総合病院の処方箋引き渡しの窓口で朝からお昼ごろまでは、まさに戦場。

9時~17時まで立ちっぱなしで働いてからダッシュで電車に飛び乗り子どもの待つ保育園に直行という生活を送っていました。

そんなある日、子どもが発熱で呼び出しの連絡が入り早退させてもらえないかと伝えると「ほかの人は迎えに行けないの?」「毎回だと困る」など言われました。

確かに限られた人数で受付を行うのはとても大変で、急にお休みになったりすると
迷惑が掛かることは十分に理解していたので伝えるときは、すごく申し訳ない気持ちがありました。

ただ、理解があると思っていた職場を選んだだけにこの言葉はとてもショックでした。

 

その後は、子どもが発熱や少し具合が悪いと言われても
「少し無理をさせてでも保育園に行かせられないか?」
「昨日だったら休みだったのに…」など
子どもの心配をしたいのに頭ではどうしても職場のことを考えてしまうようになりました。

さらにそんな自分を「ダメなママだな」と自己嫌悪に陥り、ひどい時は、家に帰って何もしてなくても涙が出てくる状態にまで精神的に自分を追い詰めてしまっていました。

この時が一番つらかったです。

 

その後、派遣会社に現状を伝え部署移動をご提案いただき健康診断のコールセンターの仕事へ。

そこでは、受付とは別世界ですごく働きやすい環境でした。
同じ年齢の子を持つママもいて急なお休みにも「お互い様」と言って電話で明るく対応してくださったり仕事もデスクワークだったので立ちっぱなしの時よりも体力を少し温存することができたので体調や心も回復していきました。

2年ほど勤めたころに念願の3人目を妊娠。

「このまま務めて給付金の取得しよう!」と思っていた私に待ち受けていたのが「新型コロナ」でした。

総合病院で感染者の受け入れもしていたため「妊婦さんは危険だ!」と病院側で判断されてしまい育休が取得できる週数まで働くことができないまま退職することになりました。

 

私はその時
ママになることで「会社に属する」ことが難しく感じ
自分が頑張っても変えることができずどうしようもない現状に直面して
今までのように
「会社に属する」という働き方は違うのかもしれないと痛感しました。

 

 

36歳~

運命を激変するWebスクールとの出会い

そこから、3人目の出産後「会社に属さない」=在宅でできる仕事と直感的に感じ仕事を探し始めました。

その当時、「在宅の仕事」と言えば母がよくボールペンの芯を本体に詰めたりするような1つ数円という「内職」をイメージしていました。
ですが、探してみると動画編集やWebデザイナーなどパソコンでできる仕事をうたった広告をよく目にしました。

ただ、家にあるパソコンは10年以上も前で新調する予算もゼロ。
入力も最低限出来る程度で全くスキルもなかった私は「このまま一生、仕事を探し続けないといけない」「新しく人間関係を作らないといけないんだ」と途方に暮れていました。

考えてばかりでは収入も入らないのでやむ負えず、一度在宅での仕事を諦めて飲食店のパートを週3~4回で働くことにしました。

 

ここでもやはり、休むときは電話することが恐怖で仕方なかったですし
さらにこの前の年、同じ市内で引っ越しをしたため仕事が終わったらすぐに、真ん中の子のお迎えのために電車に乗り1駅先の保育園に向かいとんぼ返りして、今度はバスで家の近くにある保育園に下の子を迎えに行く。

そして、当時小学校1年生に上がった一番上の子は、学童に行っていたので帰宅時間も考慮してバスが遅延して難しい場合は連絡して10分ほどずらすなど毎日頭脳ゲーム状態。

束の間のお休みも休む暇なく家事や子どもの相手で1日あっという間に過ぎていました。

それでも稼げるのは10万円行くか行かないか。
「こんなに働いてもこれだけの価値しか私にはない」と本気で思っていました。

 

そんな時、何気なく芸能人のプライベート投稿を見るために入れていたInstagramで「スマホだけで始められる」と書いてある広告に目がとまりました。

 

それが「SNS運用代行」という仕事を知ったきっかけでした。
そして、同時に私の運命を激変してくれたWebスクールとの出会いでした。

 

「もし本当に、スマホだけでできるのであればやるしかない!」とまず説明会に募集。

始めはオンラインで他人と話すことが初めてで「怪しくないかな?」「だまされたらどうしよう…」と不安な気持ちが強かったのですが対応してくださった方はとても親身に私の話に耳を傾けてくださりそんな気持ちも徐々に薄れて「私にもできそう!」という気持ちが強くなりました。

そこから真剣にSNS運用代行者になるために夫に初めて高額な自己投資をしたいと震えながら夫に説明。

「半年後に少しづつ返済する」という条件で、OKをもらいデザインスキル・ライティングスキル・SNSのマーケティングスキルを学びました。

始めは副業として月5万円を目標にその後、今のパートと同じ月10万を稼ぐという目標も立てました。

 

学習用の動画を見たり、セミナーに参加してどのように投稿作成などをしているのか学んでいくうちに「スマホだけでは仕事としてクオリティの良いものは作れそうにない」と気づきます。

確かに、広告にあった「スマホだけでできる」という意味はあくまでもテンプレを使ったりあまりデザインを気にしないならというニュアンスでしっかりとデザインやフォントを作りこんでいくならパソコンは必須だと感じました。

なので、10年前のパソコンを押し入れから引っ張り出して作業することに。
でも、やはり機能も最低限のものしかついてなかったのでフリーズしまくり、1つ投稿作成するのに丸1日費やすような状態が続き効率的に投稿を作るために新しいパソコンの購入を夫に交渉。

ダメもとでしたが深夜までパチパチと作業している姿を見ていたからか
「6万以内なら買っていいよ」と言ってくれたのでスペックの良い中古パソコンを購入できました。

夫は高校から交際していたので私の自由奔放な部分も十分に知っているにもかかわらず新しく進む道を応援してくれたことに対して本当に感謝しています。

 

そこから案件を獲得するために発信活動をするも挫折の連続でした。

 

・発信ネタを作るために必要だと言われていた「悩み出し100個」を半分埋めて終了
・毎日投稿はストック作りを怠り、当日に投稿を作り自転車操業状態
・「スクールに入ったからこのまま続けていれば大丈夫」という謎の自信を持っていて手を動かさず動画だけ見てやった気になる

そんな状態なので結果的に、やっとの思いでクラウドワークスでいただいた仕事も30投稿作って報酬が1万円(1投稿あたり約330円)と当時かなり安い設定でした。
案の定、作成に苦戦したため時給に直したら1投稿100円以下の状態に心身ともに疲弊してしまい途中で先方に謝罪をして業務終了を申し出ました。

同じ時期に入ったメンバーで、しっかりと手を動かして行動していた人は早くに実績を出して次々に理想の働き方を手に入れていましたがそれを見たときの私は「あの人と私の差は何だろう?」と考えることよりも「あの人だからできた」と思い込んでいました。

 

このままじゃだめだと本気になる

 

夫と約束した半年を過ぎたころまだ、3万円を稼ぐのがやっとでスクール代を差し引くと1万円程しか手元に残らないという状態。

スクールをやめる選択も考えましたが「今ここでやめたらまた、会社に属する働き方に戻る」と思ったらぞっとしました。

改めて夫には返済を待ってもらい気持ちを入れ替えて再度、スクールで学んだことを今度はすぐ投稿にしてみたりと手を動かしました。

お仕事もどんなちいさなお仕事も愚直に取り組みご依頼いただいた時や納品の時にはことあるごとに感謝の言葉を添えてコミュニケーションをとるようにしました。

すると、その愚直に取り組む姿を評価していただきSNS運用代行のご依頼やZoomミーティングのアシスタント、Zoom講義の司会進行など次々とお仕事の幅を広げる機会をいただけました。

このタイミングで、私は在宅のお仕事の収入をさらに上げるためにパートをやめました。

 

その後、自分のタスク管理で愛用しているツールについて発信をしたことをきっかけに
企業の社内共有の仕組み作りなどに携わるお仕事もいただけるようになり現在、約1年半で以前勤めていたパートと同じ月10万を安定的に稼げる状態になりました。

 

最後に

今年、子どもたちは小学校3年生、新1年生、幼稚園入園が控えています。

スクールに入った当初の目標を達成した今、感じることは「収入は、10万じゃ足りない」ということ。

例えば、習い事。
上の子が最近ピアノをし始め、真ん中の子も今後何かしら「習い事をしたい」と言ったら「ダメ」なんていう言わないしむしろ子どもが「やりたい!」と 言ったものはなるべくやらせてあげたいと想っています。

その他にも勉強については、塾だと送迎が大変なので学習タブレット教材を使っていきたいと考えると一人当たり習い事や勉強に充てるお金は、少なくてもひとりあたり2万円は欲しいので3人だと6万くらいは欲しい。

さらに、

・貯金:5万
・自分の美容院やジムに行く費用:3万
・家事代行(食事の作り置き)  :6万
・仕事の経費(サブスクや外注費など):5万
・食費            :5万

ここに先ほどの6万円を足すと月30万は今の私にとって最低でも必要な金額だと感じています。

そして、それ以外にも

・年2回の旅行(近場ではなく海外や地方)
・両親や夫の両親にも親孝行を生きているうちにしたい
・友人への贈り物を金額気にせず送りたい

などと考えてます。

そのためには今のスキルに磨きをかけたい!!!
そう決心して、今年の2月からWebマーケティングゼロから学び始めました!

今後は、Webマーケティングを活かして個人事業主様や小規模の企業様を対象にSNS運用のサポートをしつつ社内や運営チーム内で効率の良い情報共有のできる仕組み作りをご提案できる人材を目指しています!

 

以前の私は、ここまで具体的にお金のことやこの先の将来のことを考えられていませんでした。

しかし、Webスクールに出会い自分で失敗を繰り返しても前に進み続けた結果今の明確に将来のことを考えられるようになりました。

 

今この記事を読んでいる人の中には私と同じように、若いころ散財していて後悔している方やママになったことで「会社に属する」ことで働きずらいと感じている人もいると思います。

私は、そんな人たちがこのブログを通して

「何もない私でもできるかもしれない」
「こんな働き方があったんだ!」
「ストレスを抱えて働かなくてもいいんだ」

と新しい選択肢を増やしてもらえたら嬉しいと思っています。

そして投稿する記事では私と同じ働き方を目指せるようにわかりやすく順を追ってお伝えしていきますのでぜひ、参考にしてください!

最後まで読んでくださいありがとうございました♪